98歳になる祖母が施設に入った。

日々、ポジティブに生きようと努力する僕。この変化は少し胸がキュンとした。ときめく感情の全く逆。例えるなら、まるで胸の奥底で風が吹き、肌寒いけれどそれを防ぐ術がないような感じ。仕事中に思い返して、息が詰まった。祖母が施設に入ったという現実を、とうていポジティブには受け入れられなかった。

ぼくは祖母に本当にお世話になっていた。祖母はなんでも僕のことを認めてくれるから、甘えん坊に育った。おばあちゃん子である僕は敏感になっているだけ。なのかもしれない。それが証拠に姉はポジティブに受け取っていた。もしかして、こんなことを考えるのは僕だけなのか。何が怖いのか。

僕は両親と離れて東京暮らし。実家では父と母、祖母の三人で暮らしていた。実の両親が祖母を面倒を見てくれているのだから、安心感があった。ただ98歳の祖母の介護はなかなか骨の折れる仕事だったようだ。父が主に面倒を見てくれていた。オムツを変えたり、ご飯の用意、デイサービスの手配など。父と、祖母の話をしながら、「うちの2歳の長女と同じだね」という会話をするのが好きだった。しかし、いつまでも父に祖母を見てもらうのも現実的ではない。父にも今後の人生がある。

なぜ、施設に入ったという事実を拒否するのか。施設はコロナの影響で感染防止対策が徹底されているらしく、面会もガラス越しで時間も10分程度。施設での暮らしぶりを見ることができない。家族であっても入館ができないのだ。想像していた施設のイメージと異なり、これは祖母が望んでいる状況なのか、ぐるぐると頭の中で考える。他にも考えられる原因はある。ぼく目線で言えば、実家で佇む祖母の姿を見ることができなくなってしまったこと。縁側で食事をとりながらラジオを聴く祖母の姿。もう、この姿を見ることはできない。

いかんいかんと考えて、少し視点を変えてポジティブに見つめ直してみる。祖母の幸せを考え、父や母の幸せを考える。ふと気がつくと、何も悪いことは起きていないことに気がつく。自分が実家に帰ったときに、会いたい時に会えないのは自分の都合だ。父も介護から解放されて、東京の家に遊びに来ることも容易になると言ってくれている。祖母も先日、施設で食事を完食したと連絡が入った。気が滅入っていたら、食事も喉を通らないはず。

ポジティブに捉えることができれば、人生はその分、きっと豊かになる。気持ちを切り替えていくことができなければ、辛いのは自分自身。第三者の目線で物事を捉えて、俯瞰する努力をすることをおすすめする今回の記事でした。

祖母のこれからの新しい暮らしに、東京からエールを送り続けることにします。