お金がない方が、幸せだったりするよ。

デザインの専門学校時代。お世話になった先生の一言。彼は何気なく、そんな言葉をぼくに投げかけた。そのときはあまり考えず、深く考えることはなかった。この言葉は最近、思い起こすことが多い。

「毎日、コンビニの炒飯おにぎりを食べてました。ずっと、そればっかりでしたよ」と、話してくれたのは会社の同僚。彼はお金がない二十代前半の頃、家事そっちのけで毎日、まったく同じメニューを繰り返し食べ続けていたそうだ。

彼はいま、そんな生活はしていない。その生活に戻りたいとも思っていない。普通は、お金がないことは少しばかり辛さが残る。いま現在、お金がある生活をしていたら、戻りたくない環境だ。幸せとは無縁であることが多いように感じる。

しかし、そればっかりでもない。考えたら思い当たる。自分のお金がなかった時代のこと。

高校生。当時はアルバイトもせず、部活に明け暮れていた。お小遣いを切り崩して、好きなものを買っていた。周りの友達はアルバイトをしてお金を稼ぎ、好きな服や、音楽を好きなように買っていた。羨ましく思った。

毎日、通学する駅にある、うどん屋。冬の時期は、遠くから白い湯気が上がり、のれんが風でなびく。視覚的にお腹が空く。高校生の胃は不思議で、いくらでも胃に食物を流し込むことができた。部活帰りは、いつでもお腹は空いていた。

三百五十円の「天ぷらうどん」があった。「かけうどん」は、三百円。差額の五十円で「天ぷら」だけ食べられないか、と考えた。

店のおばさんと、友達みんなで話しかける。仲良くなる。「天ぷらだけの注文っていけますか?」と友人と尋ねる。少し笑いながら、「いいわよ」と承諾してくれた。

天ぷらは、サクサクの衣。海老・玉ねぎ、人参などが入っている。出汁が効いた熱々の汁を注ぎ入れる。湯気をまといながら、お椀を片手で持ち上げ、「どうぞ」とカウンターに運ばれる。お椀はうどんを入れる器だから、大きい。カウンターから出してくれた時点で、量が少ないので、食べかけのような見た目になる。それを箸でザクザクとかき混ぜて食べる。もしくは気分でそのままばくっと食べる日もある。味変も楽しい。七味唐辛子を入れて、「激辛風」にしたり。冬なのに、これを食べると汗が湧き出た。電車の待ち時間もあっという間にすぎた。

学校の帰り道、五十円で「天ぷら・うどん汁」をかけてくれた裏メニューが誕生してから、ぼくらの胃は満たされた。今思うと、おばさんも人がいい。高校生のお金がない若者のしあわせ。毎日、夕方の時間帯に学生で混み合うお店となった。

お金がなくても、幸せは工夫次第。そこに喜び・幸せを感じることは、いくらでもできる。「先生、そういうことですか?」と、会った時に聞いてみたい。